2011年07月の記事

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2011年7月21日(木) 01:55

大丈夫!

今日、行方不明中の従兄弟の嫁さんとこどもたち(中3、小5)3人は、震災後身を寄せていた親戚の家を出て、近くの仮設住宅に移ったそうです。

彼女たちの今後の平穏な生活を願わずにはいられません。

自分が出来る彼女たちへの小さな支援として、住んでいた家の模型復元をしようと思っています。

物資、金銭面においては、ボランティアの人たち、自治体などから、現時点では、手厚いそれなりの支援はされているようです。

これから必要なのは、おとなもこどもも、心のフォローだと聞きました。

想い出の品何ひとつなくなり、言葉通り、真新しい生活の始まりです。
そんな中でその模型が、癒しになり、拠り所にでもなってくれればいいかな、と思っています。

震災後、僕等にできるボランティアは何だろう?と知合いの女性建築士と話をしていて、その彼女が「流されてしまった家の図面の復元じゃない?」と言われたのがきっかけになっています。
前を向くことも必要でしょうが、震災前の普通の生活を取り戻すには、想い出の復元や再生も必要不可欠ではないでしょうか?

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被災地を目の当りにして、本当の意味での復興までには、果てしない時間と労力とおカネがかかると感じました。

しかし今、ひるむことなく、そこに向かって進まなければならない責任と行動力が、日本人全体に求められています。

体制面や、責任論の議論も必要なのでしょうが、まずここはひと呼吸おいて、

東北は、そして日本は絶対大丈夫!

と、皆が心の中で強く想うところから、具体的に何かが動き出す気がします。

なでしこJAPANのように!!結果は出ます!よね。

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2011年7月20日(水) 19:08

被災地vol.4

 
7年前の従兄弟の家です。


海から50mぐらいのところにあるこの家のあたりは、昭和35年のチリ沖地震で津波の被害を受けたため、建替え時、4m程高い裏の道路にレベルを合わせた人工地盤を鉄骨とコンクリートで造り、その上に木造住宅を建てました。

それが今回・・・(初めの2枚の写真は、上の写真と同じ立ち位置で撮りました。)

 

 

 

 

人工地盤のコンクリートの床が数m移動し、上の住宅は跡形もありませんでした。
高い裏道路沿いに建つ住宅の屋根まで波は来たようです。

現地は・・・

潮の香り。
土ぼこりの匂い。
腐敗臭。
黒だかりのハエ。
雑巾を絞ったかのような状態の木材、トタン板。
泥だらけの片方だけの靴。
土と海草にまみれたタイヤ・洗濯機・カバン・冷蔵庫。
ひっくり返った舟。
水と泥につかったタタミ。
ぼろぼろの本・ノート。
飴細工のような自転車。
それらに絡みつくような魚網・ブイ・ビニール紐・破れたブルーシート。
etc.etc.

そしてやっぱり、

不気味な沈黙。
不思議な静寂。

人や建物だけでなく、その日その時の生活、音や匂いや空気や時間までをも津波が持ち去ってしまったかのような光景です。

言葉ひとつ出ませんでした。

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2011年7月20日(水) 17:11

被災地vol.3

不気味な沈黙。不思議な静寂。

・・・大槌の街の印象でした。

360°見渡すことが出来てしまう荒野のような風景。
たまに動きがあるのが、はるか遠くで作業している数台の重機とダンプぐらい。

街にあるはずの喧噪や音たちがない・・・


 

 

 

 

正確には街であったはず、のところ。

「随分片付いたんだよー」と、従姉妹。

確かに、道路は通れる、瓦礫は山ほどあるけれど、ある程度場所を決めて集積されている。住宅(であったはず)の廻りに壊れた部材ひとつない、本当に何もない。基礎しかない。

けれど、です。

片付いたか、片付いていないか、という感覚の話ではありません。


何なんだ!?これは!?


高さ10数メートルもの水のかたまりが、とにかく何もかも、何でもかんでも巻き込んで、ぐちゃぐちゃにシャッフルしながら押し寄せ、もう1回その逆をやりながら引き去った・・・だろう、跡・・・をとりあえず車が通れるようにしただけ・・・の状態。

 

  

 

大槌の街は、津波と同時に大規模な火災が発生し、火がついたままの家、車、樹木などが波とともに山裾の高台に押し寄せ、津波の被害を免れた地域までも,その類焼で2次被害を受けています。

葬儀を行ったお寺さんの庫裏(くり=住職の住宅)も本堂も、その火災で全焼だったそうです。

 
その庫裏跡から海方向を見る。
真新しい電柱と電線が異様です。

津波で全壊した従兄弟の家へ⇒vol.4で。

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2011年7月11日(月) 23:01

被災地Vol.2

被災地Vol.1からの続きです。

大槌町へは、東北新幹線新花巻駅から車で向かいました。
国道283号線、通称釜石街道を西進、途中”遠野物語”で有名な遠野市を経由して、約2時間半で釜石に着きます。

道路沿いに現れる内陸部の街々には、普通の生活風景があり、東北の山あいの、のどかで落ち着いた初夏の陽ざしと緑に溢れていました。

何も変わってないんだー・・・、よかったー・・・。

そんな錯覚は釜石市内に入っても、しばらく続いていました。

しかし中心街に入ってくると・・・、

右手少し高台にある、新日鉄釜石の敷地内に、下から見上げてもわかるほどの瓦礫の山。 

左折してJRの線路下をくぐる道路上にある道路標識がめくりあがっている! 

JRの駅と新日鉄は少しばかり高台にあり、難を逃れましたが、そこから先の中心街は壊滅状態です。

風景が一変します。いきなり、です。

     

街並みはある、建物もかろうじては残っている、けれど、人がいない。

ゴーストタウン。

建物は1階から3階あたりまで、爆破されスケルトンになってしまったかのような状態です。
もうぐちゃぐちゃ。


釜石の街から北へ、三陸海岸沿いに10数Km走ると大槌町ですが、その道すがら、結局言葉を発することができませんでした。

出てくるのは驚愕の吐息とタメ息ばかり・・・。

大槌町に入ります。⇒Vol.3で。

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2011年7月6日(水) 21:07

Today's Swallow5

何があったんでしょうか・・・?

2〜3日前まではずっと暖めていたのに、突然HOMつばめは巣に戻ってこなくなりました。
いつもの少しのお出掛けかなと待っていたんですが、どうも様子がおかしい。

覗いてみたら・・

 卵がない!

10日程前に撮った写真

 

比べても、巣が荒らされた様子はないし、巣の下にも卵どころか、巣のかけらひとつ落ちていないんです。

何があったのか?

襲うやつ等は、猫、カラス、蛇。どれにやられたにしても、あまりに巣自体が壊れていませんよね。
お抱えガードマンとして目を光らせていたつもりなんですが・・・。


当面の希望の光だっただけにショックでした

また来年戻ってきてくれるのでしょうか?

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2011年7月5日(火) 23:27

被災地vol.1

このブログでも幾度となく書いてきた、東日本大震災の被災地、岩手県大槌町に行ってきました。
太平洋に面する三陸海岸、釜石市の少し北に位置する、人口15,000人の、漁業と観光が基幹産業の小さな町です。

町全体で1,600人もの方が死亡又は行方不明、4,000人の方が避難所生活、という惨状です。

そこの町役場に従兄弟は勤務していました。

役場では町長はじめ職員136人中30数名の方が死亡又は行方不明・・・

従兄弟はその時役場にはいませんでした。
別の場所で仕事をしている奥さんからの電話で、海沿いに建つ自宅へ、学校から戻った娘を避難させるために戻ったそうです。

車で自宅に戻った彼は、裏の高台にある知合いの家に娘を託し、自分は何故か徒歩で海沿いの道を役場に向かい戻って行ったようです。その途中、大津波に遭遇・・

そのまま娘と避難してれば助かったのに、どうして?・・

推測ですが、本人は、
<あの揺れだから津波は来るだろう。
<戻ってくる途中、多くの人たちが道路や家の周りでたむろしていた。
<役場の人間として、避難の声掛けをしながら戻ろう。
<車は別の避難者たちで渋滞するだろうから。
・・・で、海から50Mと離れていない全く平坦な道を歩いている途中・・・だったようです。
まさかあんな大きな津波が来るとは思わず、に。

津波に関しては、僕らの比ではない危機感、緊張感を持っていた地元の方でさえ今回の規模は全くの想定外だったようです。

その従兄弟はそうした経緯で行方不明。

もうひとりの従姉妹は、地震直後高台にある自宅に戻る途中、海に向かう幹線道路を車で走っていて、あと交差点2つ目を曲がれば家、と言うところで、前(海側)から家と瓦礫を巻き込んだ10m近い真っ黒な壁がこちらに向かってくるのが見えたため、急遽普段使わない獣道のような狭い道路にはいりこんで自宅に戻り、間一髪無事でした。

紙一重の運命。

自然の脅威には人間は太刀打ちできません。

その行方不明のままの従兄弟、家族が区切りをつける、という決断をしました。
同じように被災された、お寺さんの仮設プレファブ本堂で葬儀がありました。

姿の見えないままの葬儀、家族にとっては苦渋の決断です。

そんな気持ちに応えるような、丁寧な、心のこもった法要をしていただきました。

街全体、心理的にも物理的にも喪中と言っても過言ではない状況を目の当りにして、
まさに五感で感じなければわからないことがたくさんありました。

その一端、ほんの少しでもこの場で伝えたいと思っています。

親戚というだけで、よそ者の僕が伝えられることなどたかが知れているかもしれません。
それでも、です。


被災地で感じたこと、大きな2つ。

*.人たちは程度の差こそあれ、個人レベルでは前向きになられている感じを受けました。
生きていかなきゃならないから。
個人々々は強いです。

*.深刻なのは、津波で破壊された街。個人レベルではいかんともし難い惨状です。
今こそ政治の出番だと本当に強く感じました。今こそ強力なリーダーシップを発揮して欲しい!
今の政治は弱過ぎます



思い切り大衆的な一般的な意見ですが、
やはり政治家の方たちはまず現地の状況をしっかり見て、地元の人たちと同じ立場に立って充分に話す、これに尽きるんじゃないでしょうか?

こんな簡単なことができない日本の政治家には、"怒り"よりも言葉は変ですが、"恐怖"すら感じます。


国会議事堂内では見えないことがたくさんあります。

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次回は写真を交えてののレポート

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